育てて、信じて、共に夢を掴め: #パワプロ2020 「栄冠ナイン」プレイレビュー
モナド高校、夏の甲子園大会初優勝!!創部以来初の春夏連覇達成!!去年の先輩達の無念を晴らしてくれた!!ありがとう!!!!! #パワプロ2020 #パワプロ #Pawapuro #NintendoSwitch pic.twitter.com/ZO4zuoCPYI
— だらけ (@mtdrk) 2020年8月17日
栄冠ナインで春夏連覇を成し遂げたので、区切りの良いところでレビューをしたいと思います。筆者はパワプロ11以来のシリーズプレイでしたが、とても熱中して毎日楽しい野球生活を送らせてもらえました。
- 栄冠ナインとは
- システム解説
- 「プレイヤー」から「野球部監督」へ
- 託した選手たちが、輝く喜び
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考察:受け入れて、生まれ変わる。「幻影異聞録♯FE Encore」キャラクター考察 Kiria編
(この記事は「幻影異聞録♯FE Encre」(以下「♯ FE」と表記)の登場人物、Kiriaに関する考察記事です。「幻影異聞録♯FE Encore」のネタバレ及びKiriaのサブイベント内容が含まれます。あらかじめご了承ください。)
「♯FE」では物語を通して各フォルトナのメンバーが様々に成長してゆきます。その成長の仕方には大まかに二通りあり、自らの内面が変化してゆくものと、自らの外にある困難に対して立ち向かって越えてゆくものです。
今回はKiriaがどのように変わっていったのかを考えてゆきます。
- 歌手の歌は言葉
- Kiriaを苦しめていたもの
- 失くしたものを見つけてくれた人
- 向き合って受け入れる
- 受け入れてそしてその先へ
雑記:”笑い”で済ませることに慣れないで
こんな記事を読んだ。
記事内容は、複数のアカウントで同じ内容が大量に投稿されたので、「これは業者が手掛けたネット工作ではないか」と疑われたが、事実は仲間内で「コピペ」を同時多発的に投稿する遊びであったというものだ。
採りあげた話題が政治家に関するものだったので、「ネット工作か?」と疑われてしまう結果になったのだろう。とはいえ、確たる証拠もなく何でもかんでも「ネット工作だ!」と決めつけて話を進めてゆくのは、大きな誤解をうむのかもしれない。
私が気になった点は、記事の要点とは少し違ったところにある。
―― なぜ今回に限ってこんなに話題になったと思いますか。
まぐろ:これについては僕も分からないんです。これまでにもこのようなツイートをしていたので、今回だけ話題になった理由は思い付きません。
うっちー:個人的には、単純にウソをウソと見抜けない人が関わったからじゃないかなと。
―― 「工作疑惑」をかけられてどう感じましたか?
うっちー:笑っちゃいました。あ~こういうこと信じちゃう人本当にいるんだな~って。
コピペ投下に関わった人たちの言。私はこの発想にとても危険を感じたので、幾つか感じた点を述べていく。
誰でも見れる場所の危うさ
ツイッターは”鍵アカウント”にしない限り、基本的にはどのアカウントからでも呟きを閲覧することができる。したがってここで述べられている「ウソをウソと見抜けない人が関わったから」という可能性はゼロではない。それが親しいフォロワーに対してつぶやかれたものでも、全く関わりのない人の目に届く可能性は忘れてはいけないと思う。これは今回の件に限ったことではない。SNSに投稿することはそういうことなのだという大前提を今一度心に留めておくべきなのだろう。
自分の発言の責任は自分にある
引用した部分は次のように続く。
まぐろ:僕自身は別に怒りとかそういった感情はないんですけど、疑惑がかかった企業さんには申し訳ない気持ちがあります。
うっちー:まぐろくんと同じなんですけど、今回の件で疑惑のかかった企業様には確かに申し訳ない気持ちがありますね。
ここでいう「疑惑のかかった企業」は、この騒動でやり玉に挙げられた「ランサーズ」のこと。最初は仲間内での悪ふざけではじめたことが、このような騒動に繋がってしまうことなど、微塵たりとも予想していなかったのだろう。とはいえこの騒動の発端は彼らのつぶやきにある。それを起こしてしまった責任をどこまで自覚しているのだろうか、と不安になる。(責任の取り方は様々にあるのでここでは言及しない)
「ウソをウソだと見抜ける」条件とは
この騒動はそもそも当人たちが「おもしろいおじさん構文を作ってコピペしあう」という「悪ふざけ」からスタートしている。そしてそれが、仲間内からさらに他の人に見つかったので大きな誤解を生むようになってしまった。
私は思う、果たしてこれは「ウソをウソと見抜けない人が関わった」ことが問題なのだろうかと。
この「おじさん構文コピペ」が笑いとして成立するのは、文章の中身には要点を置かずに、いかに優れたおじさん構文であるのかを競い合っている、という状況を理解しあっている仲間内だけだ。そうでない他の人たちからすれば、文章を読むときは当然その「叙述されている話題」について考えることになる。
ここで成立する「ウソは笑いである」という条件は、その仲間内に限られたものであり、その外側では「これはウソだから」という前提条件が通用しない。外部の目に触れた瞬間に、「これはウソだから私たちにその文章の責任は無い」とおいうことは成立しなくなる。
内輪で楽しんでいることも、一歩外に出た時に、それが自分たちの仲間以外の目に触れた時に、一般社会通念と反したものであるため批判されるという構造によく似ていると思う。メンタリティも同質のものだろう。
「笑い」で済ませようとする危険
記事内で直接話題になってはいないが、一つ心配なことがある。それは、「今回の騒動は個人の”悪ふざけ”ではじめたことであり、笑いを取ろうとしたことにすぎない」と捉えられてしまうのではないかという危惧だ。
「悪気がない」とか「笑ってくれればいいと思った」ということを免罪符にすることは、とても危険だと思う。
「笑い」の本質はズレにあると思う。退屈な日常とはズレたおどけた仕草、発言、他人と自分の違いから感じる小さな不安を大げさに語ること、日常的に過ごしていたらあり得ない行動や発想発言をすること、そしてそれに対して「これは普通の人たちの感覚と異なった”ボケ”ですよ」という合図としてツッコミを入れることで笑いが生まれる。
うがった見方をすれば、日常的な感覚や常識から外れた行為に対して、「これは笑いですよ」とアナウンスすることで、「これは笑いだから、このような常識から外れた行為も許されるものなんだ」という認識を補強する行為になる。
また笑いで大切ななのは「ウケること」であって、正しさや常識的かどうかは問題にされない。笑いを繰り返してゆくことで、自分の価値観が「正しさ」よりも「ウケたかどうか」というものにすり替わっていく危険がある。
笑いはとても素敵な行為だと思う。ちょっとした冗談で笑顔が生まれ、笑顔で心の負担が軽くなり、元気になって自分自身の生活を見つめるエネルギーをもらえるから。
しかしながら、同時にその扱いにはもっと慎重であってもいいのではないか。
笑いは、他人とのズレを大げさに指摘して、そのズレを笑うものだ。言うならばそれを笑う側の「自分は”普通”である」という感覚を担保にして、自分とは違う人を笑うことに繋がっている。他人との違いを許容せず、違いを明確にすることで笑う。
笑いは「ウケること」が重きに置かれている。それが何より「正しさ」を重んじて議論してゆく話題にも関わらず、「ウケるかウケないか」で判断してしまい、正しさを軽んじてしまうことに繋がっていないだろうか。
今一度、目を瞑って身の回りにあることを考えてみる。
今の自分は、正しさや知識を重んじる議論でも、しっかりとそれらを大事にして議論できるのだろうか。
笑いを重んじることで、仲間内でキャッキャするだけでなく、その仲間たちと大切な話題をしっかりと語れる言葉をもっているのか。
いつの間にか自分が、「楽しいことだけ考えて、社会で生きてゆく、関わってゆくための知識や言葉を用いることが出来ない、閉じられた世界だけでしか生きられない人間」になってはいないだろうか。
この先も楽しく生きてゆくために、今一度心に問いておこうと思う。