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絆の力で未来を切り拓け!唯一無二の未来視バトル:「ゼノブレイド」

ゼノブレイドのバトル!/

 

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2020/5/29に発売を控えたswitchソフト「ゼノブレイド ディフィニティブ・エディション」を前に、Wiiソフト「ゼノブレイド」のバトルの魅力を紹介する。

 

  • シンプルと奥深さを同居させたシームレスリアルタイムバトル

  • 仲間と共に戦い絆を深める

  • 未来を切り拓く快感

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雑記:”笑い”で済ませることに慣れないで

こんな記事を読んだ。

nlab.itmedia.co.jp

記事内容は、複数のアカウントで同じ内容が大量に投稿されたので、「これは業者が手掛けたネット工作ではないか」と疑われたが、事実は仲間内で「コピペ」を同時多発的に投稿する遊びであったというものだ。

採りあげた話題が政治家に関するものだったので、「ネット工作か?」と疑われてしまう結果になったのだろう。とはいえ、確たる証拠もなく何でもかんでも「ネット工作だ!」と決めつけて話を進めてゆくのは、大きな誤解をうむのかもしれない。

私が気になった点は、記事の要点とは少し違ったところにある。

―― なぜ今回に限ってこんなに話題になったと思いますか。

まぐろ:これについては僕も分からないんです。これまでにもこのようなツイートをしていたので、今回だけ話題になった理由は思い付きません。

うっちー:個人的には、単純にウソをウソと見抜けない人が関わったからじゃないかなと。

―― 「工作疑惑」をかけられてどう感じましたか?

うっちー:笑っちゃいました。あ~こういうこと信じちゃう人本当にいるんだな~って。

 

 コピペ投下に関わった人たちの言。私はこの発想にとても危険を感じたので、幾つか感じた点を述べていく。

誰でも見れる場所の危うさ

ツイッターは”鍵アカウント”にしない限り、基本的にはどのアカウントからでも呟きを閲覧することができる。したがってここで述べられている「ウソをウソと見抜けない人が関わったから」という可能性はゼロではない。それが親しいフォロワーに対してつぶやかれたものでも、全く関わりのない人の目に届く可能性は忘れてはいけないと思う。これは今回の件に限ったことではない。SNSに投稿することはそういうことなのだという大前提を今一度心に留めておくべきなのだろう。

自分の発言の責任は自分にある

引用した部分は次のように続く。

まぐろ:僕自身は別に怒りとかそういった感情はないんですけど、疑惑がかかった企業さんには申し訳ない気持ちがあります。

うっちー:まぐろくんと同じなんですけど、今回の件で疑惑のかかった企業様には確かに申し訳ない気持ちがありますね。

ここでいう「疑惑のかかった企業」は、この騒動でやり玉に挙げられた「ランサーズ」のこと。最初は仲間内での悪ふざけではじめたことが、このような騒動に繋がってしまうことなど、微塵たりとも予想していなかったのだろう。とはいえこの騒動の発端は彼らのつぶやきにある。それを起こしてしまった責任をどこまで自覚しているのだろうか、と不安になる。(責任の取り方は様々にあるのでここでは言及しない)

「ウソをウソだと見抜ける」条件とは

この騒動はそもそも当人たちが「おもしろいおじさん構文を作ってコピペしあう」という「悪ふざけ」からスタートしている。そしてそれが、仲間内からさらに他の人に見つかったので大きな誤解を生むようになってしまった。

私は思う、果たしてこれは「ウソをウソと見抜けない人が関わった」ことが問題なのだろうかと。

この「おじさん構文コピペ」が笑いとして成立するのは、文章の中身には要点を置かずに、いかに優れたおじさん構文であるのかを競い合っている、という状況を理解しあっている仲間内だけだ。そうでない他の人たちからすれば、文章を読むときは当然その「叙述されている話題」について考えることになる。

ここで成立する「ウソは笑いである」という条件は、その仲間内に限られたものであり、その外側では「これはウソだから」という前提条件が通用しない。外部の目に触れた瞬間に、「これはウソだから私たちにその文章の責任は無い」とおいうことは成立しなくなる。

内輪で楽しんでいることも、一歩外に出た時に、それが自分たちの仲間以外の目に触れた時に、一般社会通念と反したものであるため批判されるという構造によく似ていると思う。メンタリティも同質のものだろう。

「笑い」で済ませようとする危険

記事内で直接話題になってはいないが、一つ心配なことがある。それは、「今回の騒動は個人の”悪ふざけ”ではじめたことであり、笑いを取ろうとしたことにすぎない」と捉えられてしまうのではないかという危惧だ。

「悪気がない」とか「笑ってくれればいいと思った」ということを免罪符にすることは、とても危険だと思う。

「笑い」の本質はズレにあると思う。退屈な日常とはズレたおどけた仕草、発言、他人と自分の違いから感じる小さな不安を大げさに語ること、日常的に過ごしていたらあり得ない行動や発想発言をすること、そしてそれに対して「これは普通の人たちの感覚と異なった”ボケ”ですよ」という合図としてツッコミを入れることで笑いが生まれる。

うがった見方をすれば、日常的な感覚や常識から外れた行為に対して、「これは笑いですよ」とアナウンスすることで、「これは笑いだから、このような常識から外れた行為も許されるものなんだ」という認識を補強する行為になる。

また笑いで大切ななのは「ウケること」であって、正しさや常識的かどうかは問題にされない。笑いを繰り返してゆくことで、自分の価値観が「正しさ」よりも「ウケたかどうか」というものにすり替わっていく危険がある。

笑いはとても素敵な行為だと思う。ちょっとした冗談で笑顔が生まれ、笑顔で心の負担が軽くなり、元気になって自分自身の生活を見つめるエネルギーをもらえるから。

しかしながら、同時にその扱いにはもっと慎重であってもいいのではないか。

笑いは、他人とのズレを大げさに指摘して、そのズレを笑うものだ。言うならばそれを笑う側の「自分は”普通”である」という感覚を担保にして、自分とは違う人を笑うことに繋がっている。他人との違いを許容せず、違いを明確にすることで笑う。

笑いは「ウケること」が重きに置かれている。それが何より「正しさ」を重んじて議論してゆく話題にも関わらず、「ウケるかウケないか」で判断してしまい、正しさを軽んじてしまうことに繋がっていないだろうか。

今一度、目を瞑って身の回りにあることを考えてみる。

今の自分は、正しさや知識を重んじる議論でも、しっかりとそれらを大事にして議論できるのだろうか。

笑いを重んじることで、仲間内でキャッキャするだけでなく、その仲間たちと大切な話題をしっかりと語れる言葉をもっているのか。

いつの間にか自分が、「楽しいことだけ考えて、社会で生きてゆく、関わってゆくための知識や言葉を用いることが出来ない、閉じられた世界だけでしか生きられない人間」になってはいないだろうか。

 

この先も楽しく生きてゆくために、今一度心に問いておこうと思う。

考察:「ゼノブレイドDE」の追加要素を見て

www.youtube.com

Nintendo Direct mini 2020.3.26」で「ゼノブレイド ディフィニティブ・エディション」(以下文中「DE」と表記)の続報が発表され、発売予定日、ゲーム内映像紹介、追加ストーリー等様々な内容が明らかにされました。本稿ではそこで明らかになった「ゼノブレイド」(以下「無印」と表記)との相違点を改めて整理してみます。

 

なお、本稿は「無印」及び「ゼノブレイド2」(以下文中「2」と表記)の物語の核心に触れた記述が含まれます。閲覧の際はご注意ください。

  • アルヴィースのチョーカー
  • 追加ストーリー「つながる未来」
  • 追加要素の是非と雑感

 

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雑記:「100日後に死ぬワニ」はステマと言えるのか?

「100日後に死ぬワニ」のツイッター漫画連載が終了した。そして、終了前には予想しなかった騒ぎが起きているようだ。

それは、「『100日後に死ぬワニ』は電通ステマだ」という意見だ。ツイッター上で色んな意見が流れてきたので、少し整理して考えたことを残しておこうと思う。

 

結論から言ってしまえば、今回の騒動全体を指して「ワニはステマだ!」と短絡的に評してしまうことは出来ないと思う。

 

ステマ」ことステルスマーケティングにどのようなものがあるか。

 

  • 企業から依頼された宣伝物を、あくまで個人のオススメであるとして、偽装の口コミを作る
  • 店頭にサクラの行列を作ることで、「行列のできる人気のお店」だと錯覚させる偽のイメージを作る
  • さも客観的な評論であるかのように、内部の人間を公平な立場だと偽り評論させる


ありもしない「人気」「評判」を偽装して宣伝広告してゆく行為をステルスマーケティングと言って来たのではないだろうか。

 

では「ステマだ!」と叫ぶ人たちは、何を隠されてきたと感じているのか。それはおそらく「個人で漫画制作・連載してきたものだと思って来たのに、コンテンツ作成に企業が関わっていたこと」だろう。

しかし、コンテンツ作成が個人で行われたかどうかは、ステマの是非には値しないだろう。

そもそも、漫画を描くにあたって、執筆者の他に、編集者などが関わっていることは珍しくない。大企業でなくても、アシスタントを雇って描く漫画家さんなんて昔から当たり前のようにいる。そういったアシスタントを雇った個人の漫画家さんの作品をすべて「ステマ」と呼ぶのか?そうは思わないだろう。

では、漫画執筆以外の点はどうだろうか。ワニの連載終了前後に、書籍化・コラボ楽曲・映像化・オフィシャルショップ展開など、様々な企画が立て続けに発表された。コンテンツを盛り上げる為に各社企業が参入して、それぞれ多方面に仕込むことは珍しいことではないと思う。「100日後に死ぬワニ」という企画を立てて、それを連載する人がいる、グッズを作る人がいる、PRを担当する人がいる。

これらの展開が、いつから、どのように企画されてきたのかは明らかにされていない。漫画連載後に多方面から企画が来たのかもしれないし、漫画連載前からあらかじめ企画されていたことかもしれない。恐らく「ステマだ!」と憤る人が”隠された”と感じている部分は、この部分であろう。

しかし、この見えない人たちの存在が、ステルスマーケティング行為とみなされるわけではないと思う。ここで関わった人たちは、それぞれ連載終了のタイミングに合わせてそれぞれの仕事をしていただけなのだから。むしろ世に存在する様々なコンテンツは、チームで作り上げているものも多いし、チームで計画的に取り組んだ方がクォリティが良いものが多いと思う。

仮にもし、ワニのステマが存在するのならばそれは、

  • 企業が作成したアカウントが個人を装い、ワニの漫画を紹介して「この漫画とても気になる!」など口コミを投稿(もしくは投稿するように指示)した

このようなことではないだろうか。

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ステマ云々についてはここで終わり。

これ以降は、「なぜ連載終了前後の様々な企画で、モヤモヤした気持ちになる人がいるのか」を私見を交えて考えてゆく。

漫画家個人が手掛けた連載だと思っていたのに、様々な企業が関わった企画と判明したから

はじまりは漫画家のアカウントからひっそりと始められた連載なので、「個人が手掛けた連載企画だ」と思っても不自然ではないと思う。これは、思い込みの見当が外れたので、驚きと戸惑いが同居しているモヤモヤだと思う。

ワニの死を悼む間もなく、矢継ぎ早にコラボが発表されたから

死はすべての生物に共通するものであり、誰もが心のうちに「死への恐怖」を抱えている。死への恐怖はとても大きく、それを受け容れることは難しいものだと思う。わかっていたこととはいえ、フィクションであれリアルであれ、誰かの死を受け容れることには時間がかかる。初七日とか四十九日の法要などが風習として息づいているのには、根源的に死と向き合うために心を整理する時間が必要だからではないだろうか。

したがって、ここで引っかかったことは「タイミング」だと思う。もう少し時間を置いてからの発表なら、ワニの死をそれぞれ悼む時間を過ぎた後なら、もっと温かくコラボが迎えられたのではと思う。(もちろん人々の注目が最高点に達する時に企画を発表することが、広告の出し方としては正攻法だとは思うが)

電通」という企業に対するアレルギー

電通案件」という言葉が多く飛び交っているが、その理由は「いきものがかりとコラボした楽曲映像のPRプランナーが電通社員」「100日後に死ぬワニの公式ツイッターアカウントを運営している会社が電通と取引している」などがわかったからだ。

正直コンテンツ作成やPRに関わることは広告を手掛ける企業の本分であるし、キャラクターグッズ製作・販売企業の取引先に電通がいてもなにも不思議なことではない。別に不思議なことではないのだけれども、電通が関わっていることを過度に嫌がる人が多いということなのだろう。

 

余談。

「自分の心を他人の掌でコントロールされること」に対して嫌悪感を表明している、ということもあるのかもしれない。

自分の心が、自分以外のものに大きく影響されて、周囲の人たちと同じ気持ちになって、一体感を感じることは、とても気持ちいいことでもある。スポーツ応援や、ライブ鑑賞などはまさしくそれだろう。自分の好きなものと他人の好きなものが同じであり、好きな者同士で繋がることは楽しい。

PRなどはまさにそれを仕掛けるのが仕事なのだが、非常に難しい仕事だと思う。「みんなが同じように良い気持ちになるにはどうすればいいか」からさらに一歩踏み込んで「みんながこちらが予想した気持ちになるように、色々と仕掛けをしよう」まで考えなければいけない部分があるからだ。

熱狂の渦の中では、自分の心にある柵は取り除かれ、溶け合って一つになってゆくことが望まれる。けれども、その心の柵を取り除くかどうかは、自分自身が判断することだということを前提に私たちは生きて考えている。

この、心の柵を他の誰かに取り除かれ、自身の心の中までズカズカ入ってこられると、非常に不快に感じてしまう。ここはとてもナイーブなところだ。信頼できる相手なら、心の柵を取り除いても構わないと思うかもしれないし、そうであっても心の柵は決して取り除きたくないという人だっている。

今回は、その心の柵を取り除く作業に対して、同意を得ることが出来なかった例なのではないだろうか。

 

 

 



 

雑記:「実績」や「トロフィー」や「評価」は誰の為にあるのか

「ASTRAL CHAIN」というニンテンドースイッチのゲームがあります。プラチナゲームズからリリースされたゲームで、レギオンという生命体の力を借りて世界を救うため戦ってゆくアクションゲームです。

プラチナゲームズはアクションゲームを多く作ってきました。プラチナゲームズ製のゲームに共通する要素はいくつか挙げられるのですが、その一つに「評価システム」というものがあります。ゲームプレイがチェックポイントで区切られ、各シーンのゲームプレイが素晴らしいかどうか様々な要素で評価し、ランク付けするものです。

評価システムのポジティブな面は、良い評価を与えることでプレイヤーに達成感を与えることだと思います。ゲームの側から、効率よく素早くクリアできた、アクションのコンボや連撃を重ねて高ダメージを与えた、敵の攻撃を華麗にかわしノーダメージでクリアできた等、様々な目標を提示し、それらを成し遂げたプレイヤーに良い評価という称賛を贈ることで気持ち良いゲームプレイに繋がると考えられます。また、様々な評価軸を意識することによって、プレイヤーがゲームスキルを上達させる助けにもなるでしょう。良い評価を求めて何度も繰り返しプレイしてもらうのも、製作側の意図としてあるかもしれません。

ネガティブな面についても考えてみましょう。評価システムそのものがストレスに感じてしまうこともあると思います。たしかにゲームプレイが上手くいっている時は快適に遊べるかもしれませんが、特に初見プレイの時は、必ずしも良いプレイが出来るとは限りません。戦う敵の挙動や操作キャラの操作感覚などに影響されて、思うようにいかないプレイをしてしまった時には低い評価をつけられてしまうことになります。自分が試行錯誤しているその過程を低評価にされてしまうと、ゲームプレイへのモチベーションを大きく下げてしまいかねないのではないでしょうか。

「ASTRAL CHAIN」では、評価システムの在り方について見直しがされたと感じました。ゲームの難易度を低く設定した場合は、評価を行わないという決断をしています。ゲームから評価を受けるか受けないかを選択することが出来るようになったと言えるのではないでしょうか。

ここで私が考えたのは、ゲームプレイヤーとしての評価システムとの付き合い方についてです。合わせて「実績」や「トロフィー」についても思いを巡らせました。

「実績」や「トロフィー」も評価システムの一つなので、それらを設定している目的はプレイヤーに達成感を与えるためだといえるでしょう。(こちらはゲームジャンルを問わず「やり込み」に対する製作側からの感謝の気持ちと捉えることもできるかもしれません)プレイヤーも「実績」などの明確な目標があれば、プレイしやすくなっていると感じるのではないでしょうか。

私がここで「付き合い方」について考えるようになったのは、ゲーム側からもらった「実績」等の数々の評価は、決してそのプレイヤーの出来不出来を定めるものではないと改めて思ったからです。

たしかに「実績」などは各プレイヤーがゲームで目標を達成した証と言えます。アクションゲームであれば、ゲームスキルが上手いとゲーム側から認められたといえるでしょう。また、自分がどれだけゲームを隅々までやり込んだのかを証明するものにもなると言えます。

「実績」はいわばゲームから授与された勲章といえるでしょう、その勲章をもらったことはとても誇れることだと思います。ただし、勲章を付けている理由で、勲章を付けてない他者を見下すことは(当たり前のことだと思いますが)出来るわけないし、逆に勲章を付けている人のことを「偉い」と感じ不当に讃える必要もないと私は思います。

ゲームをプレイし、レビュー等の形で評価したり、あるいは他者にゲームのことを紹介・説明する時に、私たちはつい「どこまでプレイしたのか」を過剰に気にしてしまっているのではないでしょうか。無意識のうちに「ゲームプレイが上手な人がゲームを語る資格がある、下手な人は語る資格がない」「ゲームの『実績』を100%取得してからでないと、そのゲームの『正しい姿』は見えてこない」などと考えたりしてしまってはいないでしょうか。

勿論、ゲームをトコトンやり込んで初めて見えてくるゲームの魅力や姿はあると思いす。しかし、だからと言ってそれは「やり込んでいないから、ゲームのことをしっかり理解していない」というわけではない、と思います。

ゲームを遊ぶとは、体験であると思います。つまり、ゲームを遊んだ一人一人によって、遊び方も異なるし、そこから見えてくる姿、遊んだ感想は様々に存在すると思います。だから、どんな感想をもつのかも自由だし、どのようなレビューをするのかも個々人の自由だと思います。

必要なのは、自分がどこまでプレイしたのかを明確にすること、ではないでしょうか。どのようにプレイしたか、これまでどんなゲームをプレイしたのか、それらを踏まえた上で自由に感想を述べてゆくことが出来ると私は思います。要するに「責任の所在をはっきりしておく」ということです。

もっと自由に、もっと気軽に、もっと楽しくゲームレビューをしてゆきたいと思った所存でした。