知らないことだらけ

ゲームとゲーム音楽と雑記

雑記:レビューを書き続けるその理由(わけ)は

 こんな記事を読んだ。

jp.ign.com

プロのライターさんが書くレビューとそうでないユーザーレビューの違いがまとめてある。責任の重さの違いはあれど、妥当さや正しさは変わりゆくものなので求めるものではないと。”自分の正しさは他人にとっての正しさではないので注意が必要ですね。”という一節がまさにその通りだなぁと思う次第だった。

プロのレビューがそこにあるのはわかる、それはレビューを書くのが仕事だからだ。ではプロでもない自分がレビューを書くのはなぜだ、それを改めて自問自答してみたい。故に今回の記事は(これまでもそうであったけど)自分の為に書くことになる。

なぜレビューを書くのか。

それは書きたいから書くのだ。

当たり前のことだが、書きたくなかったら書かない。書くというのは感情の整理だと思う。自分がゲームや音楽と出会い、生まれた感情やその動き・変化を、文章として整理して残しておきたいから、レビューを書いていると思う。その時の感情を、自分の言葉で整理していると言い換えてもいい。

感情は、自分がその時感じているよりも、ナイーブで不定形なものだ。その感情をじっと見つめて、形を見定めてゆくことが大切なことだと思う。ただ、このようなことは別に自分の言葉でなくても出来てしまう。その時の流行りの言葉、手になじんだ皆が使う言葉で、十分感情に名付けをすることができる。整理整頓を手早くするのなら、これが手っ取り早い。「エモい」とか「ヤバい」で十分に片づけは捗ってゆく。

自分の言葉で書き残すのは、それとは違うのかもしれない。本棚に並ぶ本のように、感情を整頓して並べて保存したいという点はたしかにそうなんだけど、それは自分の言葉で表現するのとは少し違う。自分の言葉で書くことは、目の前に残った感情を自分でかみ砕いて、自分の一部にしてゆくことだ。作品からもらったエネルギーや知見、感動をじっと見つめ、食べて取り入れて自分の一部にしてゆく行為だ。生まれた感情を、得た知見を、かみ砕き、飲み込み、取り入れ、学んでゆく側面もある。

また文章に残すことで、自分が得た知見や感動を、他の誰かに伝えることができるかもしれない。その時得たものを、他の誰かにみてもらいたい。もっと言うならば、自分がしたこの幸せな体験を、面白い発見を、他の誰かにも共有したい。共有して、繋がった人と語り合いたい、自分と違う知見を見てみたい、知りたいという気持ちが強いと思う。自分が他の人のレビューを見て多くを学べるように、自分が書くレビューも誰かにとってそうありたいと願う気持ちがそこにあると思う。

自分が書き残した文章が、何より自分の為に、願わくば他の人の為に、なにか心に残れるようになりたくて文章を書いているのかもしれない。それはツイッターのような短文SNSだとできない。ツイッターはどうしてもその時の感情がそのまま流れてゆく。短い文章の中にギュっと言葉を込めることで、他人と繋がりやすいという面もあるが、その言葉はそのまま流れていってしまうことが多い。

言葉が流れてゆくのは、それはそれで気持ちよいのことだけれども、流れて消えてしまうことばかりだと、自分の言葉がすり減ってしまう。すり減ると、残す力が失われてゆく。何かに感動するには、その作品そのものの素晴らしさだけでは出来ないとつくづく思う。感動するには、その作品が描いている奥深くまで、自分が辿り着かないと気づくことができないとも思う。同じ作品を見て・遊んでいるはずなのに、見ているもの感じているものは人それぞれに異なる。それは細かい分析力だったり、これまでの経験の積み重ねから育んだ勘だったり、機微を感じる繊細さだったりするのかもしれない。自分の持つそれらをそれぞれ総動員して、そして初めて自分の掌に掬いきれた感動をひたすらに見つめてゆくことができる。

そこでにあるものを見つける為に、そこで見つけた感動をしっかり形にして残せるように、そしてその心に残ったことを胸に、また新しい感動を見つけられるように、他の人にも素敵な感動が届くように。自分が書かなきゃいけないと思ってしまうような、そんな大切なものと出会えるように。また繰り返しレビューを書くのだと思う。

誰に求められたわけでもない、自分で掘りたいと思った鉱山を掘っているだけだから。けれどもこの鉱山を掘りたいと言ったのは自分だから、その責任はしっかり自分に果たしてゆきたい。